42 多摩湖の花火

42 多摩湖の花火

 昭和五年、国分寺―萩山間を営業していた多摩湖鉄道(現多摩湖線)は村山貯水池駅(現武蔵大和駅)までを延長開通させました。

 多摩湖鉄道の親会社である「箱根土地株式会社」は大正十二年の頃、百万坪(三三〇万平方メートル)の土地を買収して大泉学園都市(現、一橋学園駅周辺)の建設を計画しましたが、大正から昭和にかけて経済界は世界的な不況で思うように分譲が進まずにいました。

 「箱根土地株式会社」は交通路確保のため、昭和三年に子会社として多摩湖鉄道を開業させたのです。そのうち景気も回復して土地はほとんど分譲され、沿線人口も増えはじめてきました。当時利用客の少なかった路線の宣伝とサービスのため、夏期の土曜日の夕方から花火を打ち上げ、見物に来る乗客増貝につとめました。

 たっちゃん池東側の山(現太陽広場)に仕掛け花火や打上げ花火、直径三尺(九十センチメートル)の大筒打上げ花火は今の遊園地のあたりにしかけてありました。

 見物客は貯水池下堰堤に植えられ、きれいに生えそろっている芝生の上にゴザをしき、座って暗くなるのを待ちました。

 夏の夜空に広がる"華麗な花"を見物に来る人出は多かったようです。
 
 電車で来る人は村山貯水池駅(現、武蔵大和駅)で降り、電車が着くたびにゴザをかかえた乗客が、楽しそうにたっちゃん池の方に歩く人並がつづいたそうです。

 その頃多摩湖駅までの延長工事をしていましたが、八坂寄りにあった村山貯水池駅は現在の武蔵大和駅の場所に移され昭和十一年全線開通とともに駅名も改称されました。花火もこの年の夏頃で終ったようです。
(p95~96)